今月最後の月曜日、ってことは
2021年最後の月曜日ですよ。
おはよ、凛
今日は 凛こ 4回目の月命日。
凛の お線香立て ↑
おともだちからの贈りものです。
凛このため アタシたち家族のために オーダーしてくれた
この世に たったひとつ とくべつなものです。
凛をかたどった和菓子を贈ってくれる おともだちが
旅立った凛のため、残されたアタシたちのため
オーダーしてプレゼントしてくれたのが
↓ 虹の橋
凛こ、いまごろ なにしてるんだろ。
今朝は 夢で会いに来てくれました。
アイコンタクトを指示してるアタシに、めんどくさそうな凛こ、
が 繰り返される シチュエーションコメディでしたよ。
↑ いつもの 空羽 〜kuu〜 さんの 練り切り です。
「虹の橋の向こうで凛ちゃんが楽しく過ごしていますように」
と 贈ってくれた おともだちと 作ってくれた 空羽さんの祈りが込められた
「虹の橋」は 青森県産 りんご餡です。
「銀杏」は ↑ シナモン餡
「照紅葉」は ↑ 熊本県産 柿餡
毎年、いただいた 凛 シリーズ 上生菓子も (ケーキの年もあったね)
虹の橋 にいってしまったよぅ、、、。
何年にも渡って 凛への 想いを ありがとう。
食べちゃったけど (…) 鮮烈な 思い出です。ありがと。
長谷は光則寺、山門脇の もみじ
つぎに地元 長谷界隈をうろちょろするのは お正月だな。
年内にお墓参りも行かなくちゃ。
こっからフルスロットルなのだー。
2021年12月29日
死について、著名な文学者が言った言葉にこんなものがあったように、記憶しています。『死を怖れることはない。なぜなら、私たちが生まれる前にあった状態に戻るだけなのだから。』。正確に記憶した文章ではないので、言い回しが間違っているかもしれません。これを言ったのは、誰だったか…バーナード・ショーだったかな。私はこの文章に、実は浪人生時代の予備校の英語の授業で出会いました。そして、「え、そうかな」と疑問に感じた、というより、全く納得感ないまま、今まで来ています(予備校の英語の学習素材としての価値は、全く覚えていません)。
持っていたものを手放す、存在していたものが不存在になる、それは前の状態に戻ることを意味していない。失うこと、不在になることで生まれる悲しみ、苦しみを思えば、「怖れることはない」はあり得ない、としか思えないのです。
もちろんその文学者は別の意味で言ったのだろう、と今は思います。
不在が現実のものとなってしまったときの、激情とも言える悲しみ、慟哭は、その後時間を経過していくにしたがって、その激する部分が徐々に色褪せ、でも無力感覚を伴うような、どこにももって行くことのできない頭の中に生じる震えのような悲しみに変わって、波のように現れては消え、いつまでもなくならないな、と私は思いました。
凛さんがまだ隣にいなかった時代のあなた自身の気持ち、感情を思い出すのは、不可能に近いのではないですか?そして不在となって4ヶ月、ボディブローのように、と表現するあなたの文章と、美しい練り菓子の色合いに、静かながら、尽きることのないあなたの苦しさ・悲しみを感じます。
2021年12月30日
【しのやんさん】
まだまだ若いころ「死」は羨望にも似たものがあって、なるべく早く死にたい
なんて思ったりしました。幼いですよねー。愚かですよねー。
神への冒涜だと思いますよ。なのでバチが当たっていまのこの状態があるのかも、
と思います(笑)。アタシにとって死はわりと身近です。
いつもどっかで意識しているので、
病気を持つまえとは死に対する恐れはずいぶん違うように思います。
ただなにぶん未知なので怖いですけどね。
自分の死について医者から期限を切られたときよりも相手の死の方が
こたえるような気がします。凛に関して言えば確実にそうです。
凛がいなかったときに戻る「だけ」とは到底思えません。
凛がそばにいないころ、どんなふうに暮らしていたのか思い出せません。
空模様が怪しくなってくると、あ、早めに凛のお散歩行かなくっちゃ。
っていまでも思ってしまいます。そして、また、凛の不在を突きつけられるのです。
哀しみが終わりません。傷がまったく癒えないんですよ。
傷口がぱっくり開いたまんまなんです。それならば、
傷の痛みで凛を感じる方がまだマシかも、と思っています。
しのやんさん、今年もお世話になりました! 良いお年を。